大庭神社と臺谷(台谷)

大庭の名の由来

延長5年(927年)に書かれた『延喜式』には、この地の鎮守である「大庭神社」が登場する。平安時代に作成された倭名抄にも大庭郷の名が登場する。また、大庭という言葉には、本来「神社」という意味を持つと記されている。

臺谷(台谷)とは

大庭郷には、台、谷、小糸、入、稲荷の五地区があり、台谷はそのうちの台と谷からなる地区である。戦前から約20軒が暮らしていた。台地区には、同じ苗字の世帯も多く屋号で呼び合うなど、今でもその頃の面影が残っている。谷地区は、藤沢市の西部開発により、湘南ライフタウンとなり、現在では台谷地区全体で250軒ほどの町内になっている。

大庭神社

所在地 藤沢市稲荷997
主祭神 神皇産霊神(かみむすびのかみ)
祭 神 大庭景親(1777年(安永6年))に祀られた
祭 神 菅原道真(1783年(天明3年))に祀られた
創 建 不明
別 名 天神さま
祭 礼 9月13日

由緒

平安時代に編纂された「延喜式神名帳」には、「高座郡大庭神社」と記載されているものの、近世以前のその他の記録(社伝)は存在しない。当社の由緒に関する境内案内板では「相模十三社の一つにして子社に列せられ当社は住古より旧地なりと伝承す」と書かれている。

境内にある梵鐘は1721年(享保6年)の鋳造で、当初は「天満天神宮」と書かれていたとされるが、この文字は削り取られて新たに「大庭大明神」という文字が彫られたと伝えられる。また、藤沢市教育委員会が出版している「藤沢の文化財」によると、明治以前の当社は「天神社」という名で故障されていたとのことである。

1777年(安永6年)、神祗伯資顕王によって大庭城を拠点としていた大庭三郎景親を、さらに1783年(天明3年)には諏訪部定太郎、山崎六郎兵衛包高らの願いによって菅原道真をそれぞれ勧請(合祀)した。明治の神仏分離令以前は当社の裏にある成就院が別当寺として、当社の管理を行っていた。

熊野神社(大庭神社の旧跡)

所在地 藤沢市大庭1846(台谷)
主祭神 熊野久須比命

社格等 式内社
創 建 不明
別 名 権現さま
祭 礼 9月9日

由緒

当社が大庭神社の旧跡とされたのは、江戸時代の文化・文政(1804~1830)になってからのことである。前述の「藤沢の文化財」によると、本来は当社が延喜式内社の「大庭神社」であったが、その後、何らかの理由により稲荷の大庭神社が延喜式内社と目されるようになったと考察している。

1833年(天保4年)山崎六郎兵衛雅彦により石造の鳥居が寄進された。なお、こちらの社についても明治の神仏分離令まで、成就院が管理を行っていた。

大庭神社の旧跡と大庭郷

この地が大庭神社の旧跡と伝えられている。当地の前方に広がる丘陵地からは縄文時代前の土器や弥生時代・奈良時代の住居跡が見つかる(大庭築山遺跡)など、古くから大庭郷の集落が形成されていたと推測される。

臺谷(台谷)は大庭郷の中心だったか?

大庭築山遺跡

大庭築山遺跡からは、縄文時代の土器や弥生時代の住居跡が見つかっている。現在の台谷町内会は、地区別に4つの組に分かれており、そのうちの一つが築山組となる。

大庭神社=熊野神社?

熊野神社が大庭神社の旧跡とされたのは、前述の通り、江戸時代の文化・文政(1804~1830)になってからのことである。このことからも、大庭郷の中心は熊野神社のある台谷であったのではないかと想像される。

少年時代の思い出

現在の熊野神社入り口の右側の広場にて、昭和28年前後に町内の祭りを開催、また、田舎芝居もやり、子ども心に賑やかだった思い出があります。

また、バス停、大六天前に通称「みたらし(御手洗)」と言っていた駄菓子屋さんがありました。昭和30年前後までその駄菓子屋(石渡商店)は存在しており、当時は子どもたちのたまり場でもありました。

その昔、御手洗(みたらし)で手を清め、大庭神社(現熊野神社)に産詣したのではないかと推測されますが、・・・。

追記

その昔、御手洗坂から神明社へ真っ直ぐに坂が伸びており、神明社への参詣もあったのでは、との話もいただきましたので、情報を追加いたしました。


編集後記

このページは、台谷町内会にお住いの山崎保生さんに頂いた原稿を中心に、その他の皆さんからお話をお聞きして、由来や昭和初期の思い出などをまとめさせていただいたものとなります。

現在、住んでいる地区に興味を持ち、昔からの伝承などを後世に伝えていければと思い、わがままを言って原稿を作成していただいたり、また、お話を聞かせていただきました。ご協力いただきました皆様、本当にありがとうございました。

これからも末永いお付き合いをお願い致します。